Weekly report

週報

会長の時間

2025.08.19

会長の時間

皆様、こんにちは。


夏真っ盛り、酷暑続きではありますが、8月に入りまして早速、先日1日(金)には、大阪・関西万博テーマウィーク「平和構築と人権擁護」をテーマに2660地区内のインターアクトクラブ提唱校の7校が選ばれ、世界に向けて提言を発表されました。このプログラムは、大阪・関西万博の「対話を通して地球的課題の解決策を探る‘テーマウィーク事業’」いわゆる「いのち輝く未来社会」に向け世界と共に創造することを目的として行う取り組みとされ、ロータリーもそこに協賛する形でRI協力のもと実施されました。会場の人数制限もあり私たちは、ライブ配信により見させて頂くこととなりましたが、どのインターアクトクラブも高校生とは思えぬ発表に圧巻されました。未来を背負う若者たちからは、「子どもの権利と教育へのアクセス」「国際社会における教育の未来」また、中東や発展途上国において、報酬を得て生活を送るために多く存在する「子ども兵士」問題への教育支援の重要性など、興味深い発表を聞かせて頂きました。


また、興國高校は2500人にもなるマンモス男子校であり海外留学生も多く、多様性に溢れたパワフルな発表に、将来性のある希望を感じる場面もございました。残念ながら、提唱校である大阪桐蔭中学高等学校は選抜から外れてしまいましたが、他校の発表に感銘を受けたに違いないと思います。私も学習塾を営む者として、改めて恵まれた日本の教育環境を再認識させられ、若者の可能性を引き出す責務を感じました。最後の講評では、基調講演をされた甲南大学の中井 伊都子学長は


「人を思いやり、人を大切にするためには、まず自分自身を大切にしてください。自分を大切にできなければ、人を思いやり人権を尊重することはできません。そのためには、自分を成長させるためにも経験、体験、勉強をして、世の中に目を向けてください。」とエールを投げられました。その彼らたちは、昨日から台湾への海外研修に旅立ち、私と柿木幹事とでお見送りをさせて頂きました。是非とも中井学長のエールをもって、素晴らしい国際交流をし、新たな友情を築いてきて頂ければと願います。


さて、7月23、24日と中崎親睦活動委員長と柿木幹事とともに、秋の家族会の下見で「国生みの島」で知られます淡路島へ行って参りました。関西圏であり近場であるからこそ、見落としがちである名所を探求する視察となりました。また旅路の中で、津名ロータリークラブのメンバーと知り合えたことも何かしらの由縁であるかもしれません。この出会いの機会を生かしていきたいと中崎委員長は意気込んでおられます。委員長にはご苦労をおかけいたしますが、宜しくお願い致します。また移動時間の短い旅路の故、是非とも一人でも多くの皆様にご参加いただけます様、重ねて宜しくお願い申し上げます。


また月初といえば、お誕生日のお祝いではありますが、長きに渡り、バースデーフラワーコメントのお時間を頂いてきました。この時間は当初、私にクラブとの距離感を縮めてくださるお心遣いから始まったように記憶しています。事の発端は、私が入会する前からバースデーフラワーは飾られておりました。私が入会し花のご用命を受け、会場から「杉原君、お花の説明をしてよ」と投げかけられ今に至ります。ただ本年度は会長の時間後に改めてお時間を頂くのは恐縮でして、この場をお借りしてフラワーコメントをさせて頂きたいと思います。


8月ということもあり、夏の花といえばひまわりです。ひまわりといえば、夏の眩しい太陽に明るくエネルギッシュに咲くことから、花言葉は「あなただけを見つめる」「情熱」となっています。今月お誕生日を迎えられます田川会員にぴったりな花だと思います。お誕生日おめでとうございます。


最後ではありますが、来週はお盆に入り、休会となります。旅行やレジャーの計画を立てておられる方も多いかとは思いますが、連日40℃を超えるような異常な暑さが続いております。くれぐれもお気を付けて頂き、楽しい夏をお過ごしください。本日の例会も光り輝く未来に向け…宜しくお願い致します。


 


卓話

2025.08.19

1926年頃~1950年代半ば頃の洋菓子店

卓話発表者:森脇 克弥 会員

私たちの住んでいる日本は昭和初期から令和に至る約100年の間、さまざまな激動の時代を経験してきました。戦争、復興、高度経済成長、バブル経済、そしてその崩壊、少子高齢化、グローバル化の進展など、社会、経済、文化は目まぐるしく変化を遂げています。この大きな流れの中で、人々の生活に密接に関わる「食」の一つであるお菓子も、また、そのあり方を大きく変えてきました。


まずは昭和の初期~戦中・戦後復興期、1926年頃~1950年代半ば頃です。この頃の日本は、第一次世界大戦後の好景気を経て、都市部を中心に近代化が進みました。しかし、満州事変以降、軍国主義が台頭し、日中戦争、そして第二次世界大戦へと突き進んでいきます。物資統制が強化され、食料品をはじめとする多くの物資が不足する時代でした。この時代のお菓子は、一般庶民にとってはまだまだ高嶺の花でありまして、主に上流階級や都市部の富裕層、そして外国人居留地に住む人々が楽しむものでした。神戸や横浜といった港町には早くから外国文化が流入し、洋菓子店も誕生していました。お手元の資料をご覧ください。神戸では1922年、ドイツ人菓子職人ユーハイムが神戸の外国人居留地に開業し、日本で初めてバウムクーヘンを販売しました。戦時中は一時的に中断を余儀なくされましたが、戦後は皆様ご承知の通りで、日本の洋菓子文化を牽引する存在となりました。そして、横浜では1910年に創業した不二家がございます。創業当時からシュークリームやショートケーキを販売し、比較的安価な洋菓子を提供し、戦後の洋菓子の大衆化にも大変貢献されました。戦時中は、砂糖、小麦粉、バターなどの洋菓子の主要な原材料が軍需物資として優先され、極端な供給不足に陥りました。多くの洋菓子店は営業の継続が困難となり、休業や廃業を余儀なくされました。洋菓子の生産は極めて限定的となり、甘いものは贅沢品であり、手にいれること自体が困難な時代でした。そして終戦後、日本は壊滅的な打撃を受け、深刻な食料難に陥ります。しかし、そのような中でも、洋菓子は復興の兆しとともに少しずつ息を吹き返します。GHQによる占領下では、進駐軍の需要もあって洋菓子の供給が再開されるケースもありました。進駐軍向けの売店では、チョコレートやビスケットなどが販売され、それが日本の洋菓子職人たちにも刺激を与えました。この時期は、質の高い原材料が手に入りにくく、また冷蔵設備も十分に普及していなかったため、日持ちのする焼き菓子や、比較的シンプルな生菓子が主流でした。それでも、闇市などで僅かな洋菓子が高値で取引されるなど、洋菓子への人々の渇望は根強いものがありました。さて、この頃に私の祖父、森脇源治があられ屋として【浪花屋】を創業いたしました。もともと、能勢の百姓の出であった祖父は小学校1年生の時に丁稚奉公で大阪に出てくることとなります。最初はお菓子は全く関係なく、左官屋として働いていましたが、昭和22年に鶴橋にてあられやせんべいの製造販売を行う浪花屋を創業します。最初は銭湯をしようかあられ屋にしようか迷っていたそうですが、最終的にあられ屋を選択しました。今は浪花食品では洋菓子やゼリーを製造しておりますが、もとはあられやせんべい、ピーナッツ等の製造販売を行う会社でした。当初は祖父が製造をし、それを祖母が一斗缶に詰めて、リヤカーにのせて売りにいくという行商のようなスタイルであったそうです。私はあまり知らないのですが祖父はどちらかというと寡黙で職人タイプ、祖母は明るくて販売するのがうまかったそうです。この時代、昭和初期のお菓子といえば限られた富裕層の高級品でありました。戦中の物資不足などの苦境もあり、大変な時代でしたが、菓子文化の基盤が築かれ始めた時代でもありました。さて、次に昭和の中期ごろの1950年代半ばから1970年代にかけてのお話をしたいと思います。この頃の日本は「神武景気」「岩戸景気」「いざなぎ景気」といわれる未曾有の高度経済成長を遂げました。所得水準が向上し、テレビ、洗濯機、冷蔵庫といった「三種の神器」が普及。人々の生活は豊かになり、大衆消費社会が到来しました。食生活も大きく変化し、洋食が一般家庭に浸透し始めます。食の欧米化は、洋菓子の需要を大きく押し上げました。さて…この頃の浪花屋は鶴橋の商店街、松屋町、中央区に店舗を構えるようになっていまして、鶴橋の工場で製造をし、お店で販売をする、製造販売のスタイルになっていました。このお店は鶴橋の商店街の店舗で、おそらく昭和40年代頃かと思います。当時はコンビニもスーパーもそんなにたくさんありませんでしたので、長堀通と松屋町の角にあった松屋町店には一般の人はもちろん、ミナミの飲み屋のママさんがおつまみなどを買いによく通われていたそうです。昔の八百屋等であったような上からかごをつるして、そこに現金を入れていくスタイルで年末等になると二階からつるしたかごに現金がすぐにたまり、それを引っ張り上げてまたおろす、現金商売で昔はよく儲かったと話には聞いております。この頃、浪花屋でも動きがありました。昭和38年に現会長である私の父が入社しました。景気も良かったので、大阪だけでなく、関東にも販路を拡げ、どんどん売上を伸ばしていこうとしました。この頃は、ダイエーやイズミヤ等の大型スーパーなども乱立し、人口も増加してきておりますので大量生産、大量消費の時代であります。カルビーや東ハト等のスナック菓子のメーカーも台頭してきていました。そこで浪花屋としてもメーカーとしての販路をもっと上げていこうということで、昭和42年に現在の工場のある大東市中垣内に工場を建て、お菓子メーカーとしての売上を追及していくこととなります。この時に本社とは独立するという形で浪花食品株式会社を立ち上げております。最初はえびせんべい、ピーナッツの砂糖掛け等を製造していました。浪花食品としてはまだまだ洋菓子と言われるものは全く作っていませんでした。このころに洋菓子も、ある程度大衆化し、世の中に広く普及していきました。この頃の食料事情の改善、それから冷蔵技術の進歩が、菓子業界に大きな恩恵をもたらしたといえると思います。この時代、以下のような特徴があります。


ショートケーキの普及: いちごがのった華やかなショートケーキは、洋菓子店の定番となり、誕生日やクリスマスといったハレの日の象徴となりました。生クリームの安定供給と冷蔵技術の向上により、デコレーションケーキが一般家庭でも楽しめるようになりました。それから・・・


製菓技術の向上: フランスやドイツなど本場の技術を学ぶ機会が増え、洋菓子の種類も多様化していきました。チョコレートケーキ、モンブランなど、現在も愛される洋菓子の多くがこの時期に普及しました。


郊外型店舗の出現と百貨店での展開: 駅前や商店街だけでなく、車社会の進展とともに郊外にも洋菓子店がオープンし始めました。また、百貨店のデパ地下での洋菓子販売、贈答用としての需要も高まりました。この頃の代表的な洋菓子店といえば、


モロゾフや、銀座コージーコーナー、銀座ウエスト、タカラブネ、などがあげられます。百貨店での洋菓子店といえば【モロゾフ】そして、郊外型の洋菓子店といえばタカラブネが代表的な例かと思います。この時代は、洋菓子が「特別な日のもの」から「日常を彩るもの」へと変化し、人々の生活に深く根付いていった時代と言えるでしょう。経済成長の恩恵を最大限に享受し、お菓子の市場は拡大の一途をたどりました。


さて、次に昭和後期からバブル経済期の1980年代から1990年代初頭についてお話します。1980年代に入ると、日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称されるほどの隆盛を極め、円高も相まって海外ブランド品や高級品への消費が拡大しました。特に1980年代後半から1990年代初頭にかけてのバブル経済期は、株や不動産の高騰により、空前の好景気を享受しました。消費は「質」と「量」の両方を追求し、高級志向が強まりました。この頃、浪花食品ではせんべいだけでなく、時代の波に乗って、いよいよ洋菓子製造にも着手していきます。クリームの入ったパフケーキやバームクーヘン等も作り始めていました。そんな時にあのタカラブネから声がかかりました。当時、タカラブネで販売していた西陣織というバームクーヘンをOEMで製造してくれないかという依頼でした。当時は菓子問屋というものがまだまだ元気でして、弊社ではそのような問屋にお菓子を卸しており、OEMでの製造はあまりやっていませんでした。迷っていると祖母のアドバイスがあったそうです。【タカラブネってそんな縁起のいい名前の所から声がかかったのならやってみたら、宝の船やで!】という助言があり、OEMでの製造を受けることとなりました。皆様もよく覚えておられると思いますが、1980年代、昭和の後期はタカラブネやコンフェクショナリーコトブキ、パルナスといったチェーン店が台頭し、安くて大きくて大量生産のお菓子が大人気でありました。そんな流れに乗ってタカラブネのOEMは結果、受けたことが大成功し、のちにはタカラブネの代表商品であったモンブランを製造するまでになり、毎日、注文分をラインで製造するだけで売上が上がるという大変効率の良いお仕事をさせて頂いておりました。バブル経済の恩恵を受け、私がまだ学生の時、会社は大変景気が良かったことを記憶しております。しかし、バブル経済の後半は洋菓子業界も少し違った様相を呈してきました。消費者の購買力が増し、より高品質で洗練された洋菓子が求められるようになってきました。バブル後半は以下のような特徴があります。


本場志向の強まり: フランスなどで洋菓子の修業を積んだパティシエが帰国し、自身の店をオープンさせる動きが活発化。従来の日本の洋菓子にはなかった繊細な味わいや美しい見た目の洋菓子を提供し、消費者を魅了しました。


「パティシエ」という職業の認知向上: 専門性の高い「パティシエ」という言葉が一般に浸透し、メディアで取り上げられることで、その地位が向上しました。カリスマパティシエが誕生し、彼らの店には連日行列ができるようになりました。


多様な専門店の登場: チョコレート専門店、マカロン専門店など、特定の洋菓子に特化した専門店が登場し、消費者の選択肢を広げました。


この頃の具体的な洋菓子店は、オーボンビュータン、フランス菓子16区、アンリシャルパンティエ、ケーキハウスツマガリ等が挙げられます。


この頃、弊社の取引のあったタカラブネやその他の、安くてどこにでもあるチェーン店のお菓子屋が少し元気がなくなってきて、その代わりにこだわりの専門店、いわゆるパティスリーという業態の洋菓子店がどんどんと出てきた時代であります。私の父親も当時、めちゃくちゃ売れているケーキ屋があるということでタカラブネの方々と一緒にケーキハウスツマガリに視察に行ったことを当時話していました。この時代、バブル初期のころはまだまだ大衆化の流れはあったのですが、バブル後半になると【高級化】【本場志向】が高まり、パティシエという職業の地位向上と洋菓子が【食の芸術】として認識されてきた時代と言えます。さて、次に平成初期から現代(1990年代半ば~令和)のお話をしたいと思います。1990年代半ば、バブル経済が崩壊し、日本経済は「失われた30年」と呼ばれる長期的な停滞期に突入します。デフレ経済が続き、消費者の節約志向が強まりました。一方で、インターネットの普及によるIT化とグローバル化は加速し、社会のあらゆる側面で変革が起きました。2000年代に入ると少子高齢化が顕著になり、市場の縮小という課題も浮上します。東日本大震災や熊本地震、そして新型コロナウイルス感染症のパンデミックなど、未曾有の災害や危機も経験しました。SDGsへの意識の高まりや、健康志向のさらなる進展もこの時代の特徴です。そしてこの頃、浪花食品のピンチが訪れます。バブル崩壊後、前述しましたがパティスリーという業態がどんどんと台頭してきます。弊社の取引のあったタカラブネはどんどんと売上を落とし、とうとう民事再生法を適用することとなりました。弊社でのタカラブネの売り上げは半分以上あったため、一気に売り上げがガタ落ちします。そんな時に私が洋菓子店の修行を終え、浪花食品に入社します。入社してからはやることがない、何をすればいいかもわからない、そんな状況でした。そんな時に、現会長、当時の社長がちょこちょこと連絡を取っていたアンリシャルパンティエさんから連絡が入ります。タルトをつくってくれないかというOEMの依頼でした。なんとかピンチを逃れました。この当時、バブルはすでに崩壊していましたが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったアンリシャルパンティエさんとお取引をさせて頂いたことによって、約10年間はありがたい仕事をさせて頂きました。そんなバブル崩壊後の洋菓子業界は、消費者の多様なニーズに応えるべく、大きく変化しました。


価格競争と高品質志向の二極化: デフレ経済下では、コンビニやスーパーマーケットで手軽に購入できる安価な洋菓子が普及する一方で、記念日や特別な日のための高級な洋菓子は依然として需要がありました。価格帯と品質の二極化が進みました。消費者は賢くなり、日常使いは手頃なものを、特別な日には専門店で高品質なものを、と使い分けるようになりました。


コンビニの台頭: 各コンビニチェーンがオリジナルスイーツの開発に力を入れ、専門店の監修商品や高品質なプライベートブランドを展開。手軽に高品質な洋菓子を楽しめる「コンビニスイーツ」は、洋菓子消費の裾野を広げ、日常的な存在となりました。


インターネット販売の普及: オンラインストアの開設により、全国どこからでも有名店の洋菓子を購入できるようになり、新たな顧客層を開拓しました。特に地方の隠れた名店や、取り寄せ限定の商品などが注目を集めるようになりました。コロナ禍ではこの傾向がさらに加速しました。


健康志向の高まり: 糖質オフ、グルテンフリー、オーガニック素材の使用など、健康や安心・安全に配慮した洋菓子が増加しました。ヴィーガン対応のスイーツなども登場し、食の多様性に応えています。


SNSを活用した情報発信: InstagramなどのSNSが普及し、美しい見た目の洋菓子が「映える」コンテンツとして注目を集めました。多くの洋菓子店がSNSを活用して新商品の情報発信やブランドイメージの構築を行っています。インフルエンサーなどの口コミが売上を大きく左右するようになりました。


パンデミックの影響と対応: 新型コロナウイルス感染症の流行での外出自粛により大きな打撃を受けました。しかし、オンライン販売の強化、テイクアウト需要の増加、ECサイトの拡充など、柔軟な対応で困難を乗り越えようとしています。自宅での「おうち時間」を楽しむためのスイーツ需要も高まりました。


この頃の具体的な洋菓子店は、シャトレーゼ、キルフェボン、グラマシーニューヨーク、パティスリーサダハルアオキ、アテスウェイなどがあげられます。シャトレーゼやコンビニスイーツなどは高品質のものと低価格のものの2極化の最たるものだと思います。今、タカラブネやコトブキ等が出てきたらまた戦えるのではないかなと思います。この時代は、洋菓子が「多様なシーンで、多様なニーズに応えるもの」として、その選択肢が格段に広がった時代と言えます。消費者の嗜好の多様化と情報化社会の進展が、業界の姿を大きく変えました。さてこれまで昭和初期から現在までの日本の栄枯盛衰、洋菓子業界、そしてその時々の浪花食品の状況をお話させていただきました。これからの時代、何を意識してどう進むべきなのか、今後の菓子業界は、以下の点が重要になると考えられます。


サステナビリティへの配慮: 環境問題や倫理的な調達への意識の高まりから、持続可能な原材料の使用、フードロス削減、環境負荷の少ないパッケージなどがより一層求められるでしょう。SDGsへの貢献が企業の価値を高める要素となります。


個人の多様なライフスタイルへの対応: 一人暮らし、少人数世帯の増加により、個食や少量多品種のニーズが高まります。また、アレルギーや健康志向への対応はさらに重要性を増し、パーソナライズされた商品開発が鍵となります。


「体験」の提供とブランド価値の構築: 単に美味しいだけでなく、店舗の雰囲気、購入体験、SNSでの共有、商品に込められた物語など、洋菓子を通じて得られる「体験」の価値がより重視されるでしょう。オンラインとオフラインを融合させた新たな顧客体験の創出も重要です。


グローバルな視点とローカライズ: 海外のトレンドを取り入れたり、逆に日本の洋菓子文化や和の素材を海外に発信したりと、グローバルな視点での展開も加速する可能性があります。同時に、地域の特性や食材を活かしたローカライズされた商品開発も進むでしょう。特にグローバルな視点というところでは、現在弊社がお取引をしている各社さんも大変意識をしておられ、弊社としても、日本を発信できる和の素材を使用した和スイーツなどの提案を行っている最中であります。このようにお菓子は、時代と共に変化をしながらも、私たちの日々の生活に彩りを与え、喜びをもたらす存在であり続けるでしょう。これからも人々の心を豊かにするお菓子を作り続けていきたいと思います。



その他

2025.08.19

本日の昼食


2025.08.19

城フェス2025のご案内

大東市職員の方々が、城フェス2025のご案内にお越しになられました。大東ロータリークラブから寄贈した三好長慶公の銅像についての写真展示また、銅像レプリカの展示がある旨、ご説明してくださいました。



2025.08.19

お誕生日 お祝い

田川会員、お誕生日おめでとうございます!



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